始新世の急激な温暖化

## 温暖化は始新世の一点だけで起きたわけではない 始新世は、約5600万年前から約3400万年前まで続いた、新生代でも特に温暖な時代である。ただし、「始新世になった瞬間に地球が急激に暑くなった」と考えるのは正確ではない。始新世直前の暁新世後期から地球はすでに温暖な状態にあり、その長期的な変化の途中に、さらに急激な温暖化が何度も重なった。 そのなかで最もよく知られているのが、約5600万年前の**暁新世―始新世温暖化極大(PETM)**である。名称が示すように、これは暁新世と始新世の境界に起きた事件であり、始新世の幕開けとほぼ重なる。 PETMでは大量の炭素が大気と海洋へ入り、地球の平均気温は数℃規模で上昇したと推定されている。研究によって数値には幅があるが、近年の復元でも全球平均でおよそ4~6℃前後の温暖化が示されている。 地質学的には非常に急速な変化だった。しかし、この事件だけを切り取って始新世の温暖化を理解することはできない。PETMの前にも環境変化は進行しており、その後にも別の温暖化事件と長期間の高温状態が続いたからである。 ## 大量の炭素が地球の炭素循環を揺さぶった PETMを示す重要な証拠の一つが、世界各地の海底堆積物や陸上地層に記録された炭素同位体比の急激な変化である。これは、炭素13の割合が低い大量の炭素が大気・海洋系へ加わったことを示している。 放出された炭素量の推定には大きな幅があり、正確な量や放出速度も完全には確定していない。それでも、数千ギガトン規模以上の炭素が地球表層へ加わった可能性が高い。 問題は、その炭素がどこから来たのかである。 始新世初期には北大西洋周辺で大規模な火成活動が進行しており、火山活動による二酸化炭素の放出は有力な要因の一つとされている。また、マグマが有機物に富む堆積物を加熱することで生じた二酸化炭素やメタンが放出された可能性も研究されている。さらに、最初の温暖化が海底のメタンを含む炭素貯蔵庫や陸上の有機炭素を不安定化させ、追加の温室効果ガス放出を引き起こしたというフィードバックも考えられている。 現在の研究では、火山活動と炭素循環のフィードバックを組み合わせた説明が有力になっているが、「単一の炭素源がPETMを引き起こした」と断定できる状態ではない。PETM以前から生態系や海洋環境に変化が現れていたことを示す研究もあり、事件の前段階から地球システムが変化していた可能性がある。 ## 温度だけでなく海洋そのものが変わった 大気中の二酸化炭素が増加すると、温室効果によって気温が上がるだけではない。二酸化炭素の一部は海へ溶け込み、海水の化学状態も変化する。 PETMでは海洋酸性化が起こり、炭酸カルシウムが海底に保存されにくくなったことが、海底堆積物から読み取られている。表層海洋の温暖化と酸性化が同時に進んだことを示す地球化学的証拠も得られている。 さらに温かい水には酸素が溶け込みにくくなるため、海洋循環や栄養塩循環の変化と組み合わさって、各地で低酸素化が進んだ。ただし、世界中の海が一様に無酸素になったわけではない。低酸素化の程度には大きな地域差があり、熱帯の上部海洋では逆に酸素量が増えたことを示す研究もある。したがって、「温暖化によって海が全面的に酸欠になった」という単純な図式では捉えられない。 ## 深海では絶滅、陸上では移動と小型化が起きた 急激な環境変化への生物の反応も、生息環境によって大きく異なった。 特に大きな打撃を受けたのが深海底に暮らす底生有孔虫である。PETMではこのグループに大規模な絶滅が起こった。高温、低酸素化、海洋化学の変化、海底へ届く餌の変化などが複合的に関係したと考えられており、一つの要因だけで説明することは難しい。 一方、海洋表層のプランクトンでは、すべてが一斉に絶滅したのではなく、温暖な水域を好む種類の分布拡大や群集構成の変化が起きた。もともと低緯度に多かった生物が高緯度へ広がるなど、生物地理そのものが組み替えられていった。 陸上でも変化は大きかった。気温だけでなく降水量や季節性が変化し、植物群集と、それを利用する動物の生息環境も変わった。 哺乳類では、PETMの時期に複数の系統で一時的な小型化が確認されている。高温環境では小さな体が熱を逃がしやすいこと、植物の栄養状態や水利用の変化が成長に影響したことなど、複数の説明が考えられている。小型化はすべての哺乳類に共通する反応ではないが、後に起きた別の温暖化事件でも似た現象が確認されており、急激な温暖化に対する生物学的反応の一例とみなされている。 同時に、温暖化によって高緯度地域の寒冷な障壁が弱まり、生物が大陸間や緯度方向へ移動しやすくなった可能性もある。つまり温暖化は絶滅だけを引き起こしたのではなく、生息域を移動させ、生物どうしが出会う組み合わせまで変えていった。 ## PETMが終わっても「温室地球」は続いた PETMの特徴的な異常は、およそ十数万~20万年ほどの時間をかけて次第に弱まっていったと考えられている。 大気中の二酸化炭素が増えて温暖化すると、降水や岩石の化学風化が変化し、最終的には炭素を海洋や堆積物へ移す過程が働く。また、陸から海へ運ばれた有機物の埋没なども炭素除去に寄与した可能性がある。こうした負のフィードバックによって炭素循環は徐々に回復したが、その時間尺度は人間から見れば非常に長い。 しかも、PETMが終われば始新世が寒冷化したわけではない。 約5410万年前には「始新世温暖化極大2(ETM2)」と呼ばれる別の急激な温暖化事件が起きた。さらに始新世前半にはいくつもの比較的小規模な高温イベントが記録されている。 その先には、およそ5340万~4910万年前を中心とする**前期始新世気候最適期(EECO)**と呼ばれる長期間の非常に温暖な状態があった。 したがって始新世前半の気候史は、「PETMという一度の災害」ではなく、すでに温暖だった地球に急激な炭素放出が重なり、その後も複数の温暖化パルスを経験しながら、長期的な温室気候へ移行していった歴史として見る必要がある。 ## 急激な温暖化は生命史の「選別」と「移動」を引き起こした PETMは、ペルム紀末や白亜紀末のように地球規模で多数の生物群を一掃した大量絶滅とは異なる。大きな絶滅が起きた環境がある一方で、別の場所では生物が移動し、一部の系統は新しい地域へ進出した。 そこに始新世温暖化の生命史上の重要性がある。 気候帯が移動すれば植物の分布が変わり、植物が変われば草食動物が影響を受け、さらに捕食者や分解者まで影響が広がる。海では水温、酸素量、酸性度、海洋循環が同時に変化するため、それまで成立していた生態系の組み合わせそのものが再編される。 その後、始新世中期以降には地球は長期的な寒冷化へ向かい、始新世末には南極の氷床形成へつながる大きな転換が進んでいく。前期始新世の極端な温室世界は、新生代を通じて続いた恒常的な状態ではなかった。 始新世初期の急激な温暖化が示しているのは、気温が数℃変わったという事実だけではない。炭素循環の変化が気候を動かし、その気候変化が海洋化学や水循環を変え、生物の絶滅・小型化・移動・分布拡大を引き起こす。そして生物圏や岩石の風化、海洋への炭素埋没が、今度は長い時間をかけて地球環境を変え返していく。 始新世の温暖化は、生命と地球環境が別々に変化するのではなく、一つの地球システムとして互いに影響し続けてきたことを示す代表的な出来事なのである。