海洋無酸素イベント
## 「海全体が無酸素になった事件」ではない
海洋無酸素イベント(Oceanic Anoxic Event、OAE)とは、海洋の広い範囲で酸素の乏しい状態が拡大し、有機物に富む堆積物が各地に残された時期を指す。とくに中生代の地層でよく知られ、ジュラ紀前期のトアルシアン海洋無酸素イベント、白亜紀前期のOAE1a、白亜紀中頃のOAE2などが代表例である。
ただし、「海洋無酸素イベント」という名称から、世界中の海が一斉に完全な無酸素状態になったと考えるのは正確ではない。たとえば約9400万年前のOAE2でも、酸素欠乏の程度は海域や水深によって異なり、途中で酸素が回復した場所もあったことが示されている。近年の研究でも、OAE2における無酸素化には大きな地域差が認められている。
重要なのは、海底の一地点で酸素が不足したことではない。気候、大気中の二酸化炭素、火山活動、海洋循環、生物生産、栄養塩、炭素循環などが連鎖し、通常よりはるかに広い範囲で海洋環境が変化したことにある。
## 無酸素化の前には地球環境の変化があった
海洋無酸素イベントの原因を、単に「火山が噴火したから」と説明することはできない。しかし、代表的なイベントの多くで大規模な火山活動との時間的な関係が指摘されている。
たとえばトアルシアン海洋無酸素イベントは約1億8300万年前に起こり、南部パンゲアで活動したカルー・フェラー巨大火成岩区との関連が有力視されている。白亜紀前期のOAE1aでも、オントンジャワ海台を形成した大規模火成活動が主要な候補である。
白亜紀中頃のOAE2についても、大規模火成活動にともなう二酸化炭素放出が温暖化を促したという見方が有力である。ただし、どの火成岩区がどの程度寄与したのかについては研究が続いている。近年にはケルゲレン地域などの火山活動との関係を検討する研究もあり、単一の噴火活動だけですべてを説明できるとは限らない。
火山活動が重要なのは、それ自体が海水から酸素を奪うからというより、地球システム全体を変化させる出発点になりうるからである。
## 温暖化から無酸素化へ続く連鎖
大量の二酸化炭素が大気へ供給されると、気候は温暖化する。海水は温かくなるほど溶け込める酸素の量が少なくなるため、温暖化そのものが海洋の酸素不足を起こしやすくする。
しかし、それだけでは広範囲の無酸素化を十分に説明できない。
温暖化によって水循環が活発になれば、降水や河川流量、陸地の風化が変化する。陸から海へ運ばれるリンなどの栄養塩が増えると、植物プランクトンなどの一次生産が活発になる場合がある。
海面付近で大量の有機物がつくられても、そのすべてが海底まで保存されるわけではない。多くは沈降途中や海底付近で微生物によって分解される。この分解には酸素が消費されるため、生物生産が過剰に高まれば、深い海や海底付近では酸素消費が酸素供給を上回りやすくなる。
さらに温暖化や淡水流入によって海水の密度差が強まり、水柱が成層化すれば、表層から深層へ酸素を運ぶ混合も弱くなる可能性がある。
つまり海洋無酸素イベントは、
火山活動や炭素放出
→ 温暖化
→ 風化・水循環・栄養塩供給の変化
→ 生物生産の増大
→ 有機物分解による酸素消費
→ 海洋循環や成層の変化
→ 酸素欠乏域の拡大
という複数の過程が重なって進行したと考えるのが適切である。実際、OAE2では温暖化、栄養循環の強化、高い生物生産、酸素極小域の拡大が結び付いていたことが示されている。
どの過程が最も重要だったかは、イベントや海域によって異なる可能性がある。
## 黒色頁岩に残された無酸素海の記録
海洋無酸素イベントを知る重要な手掛かりが、黒色頁岩である。
通常、海へ沈んだ生物由来の有機物の多くは、微生物によって分解される。しかし海底付近の酸素が乏しくなると、有機物が完全に分解されないまま堆積物中に保存されやすくなる。その結果、有機炭素を多く含む暗色の地層が形成される。
中生代の複数の大陸や海底から似た年代の有機物に富む堆積物が確認されたことが、「海洋無酸素イベント」という考え方の基礎になった。
ただし黒色頁岩が存在するからといって、その時代の全海洋が無酸素だったことにはならない。堆積環境や海盆の形、海流、水深などによって酸素状態は異なる。
酸素がほぼ失われた水域では、さらに硫酸還元菌などの活動によって硫化水素が蓄積することがある。この状態は「硫化水素を伴う無酸素状態(euxinia)」と呼ばれる。OAE2ではこのような環境が拡大した証拠も得られているが、やはり全海洋が一様に硫化水素に満たされたわけではない。
## 炭素循環そのものが大きく揺れた
海洋無酸素イベントは、酸素だけの事件でもない。地球規模の炭素循環の変化でもある。
無酸素化によって有機物が海底に保存されやすくなると、生物が固定した炭素の一部が長期間、堆積物へ隔離される。そのため大気・海洋から炭素が取り除かれる。
OAE2の地層では、世界各地で特徴的な炭素同位体比の変化が確認されている。これは大量の有機炭素が堆積物へ埋没したことを示す重要な証拠の一つである。OAE2では、有機炭素の埋没にともなって大気中二酸化炭素が低下した可能性も指摘されている。
ここには興味深いフィードバックがある。
温室効果ガスの増加によって温暖化と無酸素化が進んだとしても、その結果として大量の有機炭素が海底へ埋没すれば、今度は二酸化炭素を減らす方向に作用する。海洋無酸素イベントは単純に悪化し続けたのではなく、地球システム内部にイベントを弱める作用も生み出していたことになる。
## 生物にとっては「生息地が消える」変化だった
酸素を必要とする海洋動物にとって、無酸素化は直接的な脅威となる。
とくに海底で生活する底生生物は、酸素の乏しい水塊から逃げにくい。酸素欠乏域が浅い海へ広がれば、生息可能な海底そのものが縮小する。プランクトン群集にも大きな変化が起こり、食物網全体へ影響が及ぶ可能性がある。
トアルシアン海洋無酸素イベントは大きな海洋生物危機と重なっており、OAE2でも海洋微生物を含む生物群の顕著な入れ替わりが知られている。
ただし、絶滅の原因を酸素不足だけに限定することはできない。
同じ時期には急激な温暖化、海洋酸性化、栄養塩循環の変化、海水温上昇、硫化水素の発生などが同時に生物へストレスを与えた可能性がある。生物危機は、複数の環境変化が重なった結果として理解する必要がある。
また、影響はすべての生物に等しかったわけではない。低酸素環境に強い生物や、環境変化に応じて分布を変えられる生物には生存の余地が残る。したがって海洋無酸素イベントは単なる「生物が減った時代」ではなく、生態系の構成を選択的に組み替える出来事でもあった。
## 無酸素海はやがて終わる
海洋無酸素イベントは永久には続かなかった。
有機炭素の埋没による二酸化炭素の除去、温暖化にともなって加速した岩石風化による長期的な炭素固定、火山からの炭素供給量の変化などが組み合わさり、温室化を促した条件は次第に弱まっていったと考えられる。
同時に、海洋循環や栄養塩循環が変化すれば、深海へ再び酸素が供給されるようになる。酸素欠乏域が縮小すると、有機物の保存効率も低下し、黒色頁岩が大量に形成される状態も終息する。
この回復も一瞬ではない。海域によって無酸素化の開始と終了の時期は異なり、途中で酸素状態が何度も変動した記録もある。海洋無酸素イベントを一つの瞬間的な「事件」と見るより、数十万年以上にわたり地球システムが不安定化し、海ごとに異なる応答を示した期間として見るほうが実態に近い。
## 海洋無酸素イベントが示す地球生命史
海洋無酸素イベントが重要なのは、過去に海から酸素が減ったという事実だけではない。
地球内部の火山活動が大気中の炭素量を変え、大気の変化が気候を変え、気候が陸地の風化や海洋循環を変える。そこから海の栄養状態と生物生産が変わり、生物活動そのものが酸素と炭素の循環をさらに変えていく。
そして大量に埋没した生物由来の炭素は、今度は地球環境を別の方向へ動かす。
海洋無酸素イベントとは、地質、気候、海洋、生物が別々に動いた事件ではない。それらが互いに作用し合った結果、地球の海が一時的に別の状態へ移った現象だった。
その過程では絶滅や生物群の入れ替わりが起こった一方、イベント後には新しい生態系が形成されていった。海洋無酸素イベントを地球生命史の中で見ると、生命は環境変化を一方的に受ける存在ではなく、炭素や酸素の循環を通じて、その後の地球環境をつくり直す側でもあったことが見えてくる。