海洋無酸素と生物多様性

## 海から酸素が失われるとはどういうことか 海洋には、海面から取り込まれた酸素や、植物プランクトンの光合成によって生じた酸素が溶け込んでいる。しかし、その濃度はどこでも同じではない。表層では大気との交換や光合成によって酸素が供給される一方、深い海では沈降した有機物を微生物が分解するときに酸素が消費される。 酸素の供給より消費が大きくなれば、海水中の溶存酸素は減少する。酸素が非常に少ない状態を低酸素、ほとんど存在しない状態を無酸素と呼ぶ。さらに硫化水素が蓄積するような環境では、多くの酸素呼吸生物にとって生存が難しくなる。 地球史では、こうした低酸素・無酸素の海が現在より広い範囲に広がった時期が何度もあった。とくに一部の大量絶滅事件や急激な環境変動とほぼ同じ時期に、海底堆積物から無酸素化を示す証拠が見つかっている。 ただし、「海が無酸素になったから大量絶滅が起こった」という一方向の因果だけで理解するのは適切ではない。海洋無酸素化そのものが、気候変化、火山活動、海洋循環、生物生産、栄養塩循環などが結び付いた地球システムの変化の一部だからである。 ## なぜ海洋無酸素化が起こるのか 海洋の酸素濃度を左右する重要な要素の一つが水温である。一般に、水は温かくなるほど保持できる酸素の量が減る。そのため地球が温暖化すると、海洋の酸素濃度を低下させる方向に働く。 しかし、それだけでは大規模な無酸素化を説明できない。 海水が深海まで酸素を運ぶためには、表層水と深層水の循環が必要である。海水温や塩分の分布が変化し、深海への酸素供給が弱まれば、深部では酸素が補充されにくくなる。 さらに重要なのが有機物の分解である。海面付近で植物プランクトンが大量に増殖すると、その一部は死骸や排出物となって沈降する。これを微生物が分解すると大量の酸素が消費される。 したがって、 「温暖化 → 海洋循環の変化 → 酸素供給の低下」 という経路と、 「栄養塩増加 → 生物生産増加 → 有機物分解増加 → 酸素消費増加」 という経路が同時に働く可能性がある。 河川からの栄養塩供給、風化作用、火山活動に伴う物質循環の変化なども関係しうる。どの要因がどれほど重要だったかは時代や海域によって異なり、個々の海洋無酸素イベントについても研究が続いている。 ## 酸素不足は生物を選別する 酸素を使って呼吸する海洋動物にとって、低酸素化は直接的な生理的制約となる。 魚類や多くの無脊椎動物は、必要な酸素を得られなくなると活動や成長が制限される。さらに酸素濃度が低下すれば、その場所から移動できる動物は逃げることができても、海底に固着している生物や移動能力の低い生物は影響を受けやすい。 このため無酸素化は、単純に「すべての生物を同じ割合で減らす」現象ではない。生息する水深、生活様式、代謝、生理的耐性、移動能力などによって影響が異なる。 広い海域で海底付近が無酸素になれば、底生生物の生息可能域は縮小する。浅い場所まで低酸素水が広がれば、生物が利用できる空間そのものが狭くなることもある。 一方、酸素を必要としない代謝を行う微生物にとっては、無酸素環境は必ずしも不利ではない。硫酸塩還元菌などが活動しやすくなり、炭素・硫黄・窒素などの物質循環も変化する。 つまり海洋無酸素化は、生物量を減少させるだけでなく、海洋生態系を構成する生物の種類や代謝経路そのものを変える。 ## 大量絶滅との関係 地球史上の複数の大量絶滅では、海洋無酸素化との時間的な重なりが確認されている。 とくにペルム紀末の大量絶滅や、中生代に何度か起きた海洋無酸素事変では、酸素の乏しい海が広がったことを示す地球化学的・堆積学的証拠が知られている。 ただし、大量絶滅の原因を無酸素だけに求めることは難しい。 例えば大規模火山活動が起これば、大量の二酸化炭素放出によって気候が温暖化する可能性がある。温暖化は海洋の酸素保持能力や循環を変え、無酸素化を促進しうる。同時に、海洋酸性化、海水温上昇、生息域変化なども生物に負荷を与える。 この場合、火山活動、温暖化、海洋化学変化、無酸素化、絶滅は独立した事件ではない。 一連の地球システム変動として連鎖していた可能性が高い。 しかも、どの要因が最初の引き金となり、どの要因が絶滅規模を拡大したのかは、事件ごとに異なる。地層から復元できる時間分解能にも限界があり、完全な因果順序を決められない場合もある。 したがって海洋無酸素化は、大量絶滅を理解するうえで重要な要因ではあるが、常に唯一の原因だったと考えるべきではない。 ## 生物が無酸素化を強めることもある 海洋無酸素化は、地球環境が生命に作用するだけの現象ではない。生命活動そのものが酸素濃度を変化させる。 典型的なのが、植物プランクトンによる有機物生産である。 表層では光合成によって酸素が生じるため、一見すると生物生産が増えれば海は酸素化しそうに思える。しかし、生産された有機物が深部へ沈み、そこで分解されれば酸素が消費される。 栄養塩が多い海域では、この過程が強まり、深層や海底付近の低酸素化につながることがある。 さらに酸素が減ると、海底堆積物からリンなどの栄養塩が水中へ戻りやすくなる場合がある。それによって表層の生物生産がさらに増え、有機物の沈降と分解が増加すれば、 無酸素化 → 栄養塩供給増加 → 生物生産増加 → 酸素消費増加 → さらに無酸素化 という正のフィードバックが成立する可能性がある。 ただし、この循環の強さは海洋化学や堆積環境に依存するため、すべての海洋無酸素化に同じ仕組みをそのまま当てはめることはできない。 ## 無酸素化は炭素循環にも影響する 酸素の乏しい海底では、有機物が完全に分解されず、堆積物中に保存されやすくなる場合がある。 実際、地球史上の海洋無酸素事変に対応する地層には、有機物に富む黒色頁岩が広い範囲で形成された例がある。 これは生命活動によって大気や海洋から取り込まれた炭素の一部が、長期間地層へ埋没したことを意味する。 有機炭素が大量に埋没すれば、大気・海洋の炭素循環や酸素循環にも影響しうる。長い時間尺度では、有機炭素の埋没は酸素が地球表層に残ることとも関係する。 ここでも生命と地球環境の関係は一方向ではない。 環境変化が海を無酸素化し、無酸素化が生態系を変え、その生態系と堆積過程の変化が炭素や酸素の循環を変える。その結果がさらに気候や海洋環境へ戻ってくる。 ## 絶滅の後には新しい生態系が形成される 大規模な無酸素化に伴って多くの種や系統が失われても、生態系が単純に以前の状態へ戻るとは限らない。 絶滅によって捕食者、被食者、造礁生物、底生生物などの構成が変われば、それまで存在していた生物間関係も崩れる。生き残った系統は、その後の環境条件のなかで異なる生態的役割を広げることがある。 ただし、これは絶滅が新しい生物を生み出すために起こるという意味ではない。絶滅そのものに進化上の目的はない。 環境変動の結果として多くの系統が失われ、その偶発的な生き残り方によって、後の進化が進む出発条件が変化したのである。 そのため海洋無酸素化は、短期的には生物多様性を低下させる圧力になりうる一方、長期的にはどの系統が残り、その後どのような生態系が成立するかを左右する歴史的な選別過程の一部となる。 ## 海洋無酸素化から見える地球生命史 海洋無酸素化を調べると、生命史を「環境が変わり、生物がそれに適応した」という単純な物語として描けないことが分かる。 大気中の二酸化炭素、気温、海洋循環、栄養塩、生物生産、微生物分解、酸素濃度、炭素埋没は互いにつながっている。 地球環境が変われば生命の分布や多様性が変わる。しかし生命もまた、光合成、有機物生産、分解、栄養塩循環、炭素埋没などを通じて海洋と大気の状態を変える。 海洋無酸素化は、この双方向性がはっきり現れる現象の一つである。 過去の無酸素化について、どの原因がどの程度重要だったのかは必ずしも完全には分かっていない。それでも地層や化石、同位体などの証拠を組み合わせることで、生命と地球環境が長い時間をかけて互いの条件を変え続けてきたことが見えてくる。 生物多様性の歴史とは、生物だけの歴史ではない。海洋、大気、岩石、生物が相互作用する地球システム全体の歴史でもある。