水平伝播が変える系統樹
## 遺伝情報は親から子へだけ伝わるのか
生物の進化を図にするとき、もっともよく使われるのが「系統樹」である。共通祖先から系統が枝分かれし、その枝がさらに分岐して現在の生物へつながる。ダーウィン以来、この樹木状のイメージは生命史を理解する強力な道具となってきた。
しかし、とくに細菌や古細菌の進化を詳しく調べると、遺伝情報は必ずしも祖先から子孫へだけ伝わっているわけではない。異なる系統の生物のあいだで遺伝子が移動することがある。これを**水平伝播(水平遺伝子伝達、horizontal gene transfer)**という。
親から子へ遺伝子が受け継がれる通常の遺伝を「垂直伝播」と呼ぶなら、水平伝播は系統樹の別々の枝を横方向につなぐ現象である。そのため生命史は、単純な一本の木だけでは表現できない部分を持つ。
これは「系統樹が間違っている」という意味ではない。生物の系統が祖先から子孫へ分岐してきたこと自体は変わらない。ただし、遺伝子ごとの歴史まで含めて考えると、生命史には枝分かれだけでなく、枝どうしをまたぐ遺伝情報の移動が重なっている。
## 水平伝播はどのように起こるのか
水平伝播は、とくに細菌で詳しく研究されている。代表的な仕組みには、形質転換、接合、形質導入などがある。
形質転換では、環境中に存在するDNA断片を細胞が取り込む。接合では、細胞どうしが接触し、プラスミドなどのDNAが移動する。形質導入では、細菌に感染するウイルスであるバクテリオファージがDNAを別の細胞へ運ぶことがある。
もちろん、移動したDNAがすべて新しい宿主の遺伝情報として残るわけではない。細胞内で維持され、場合によっては染色体へ組み込まれ、その生物の生存や繁殖を妨げずに世代を超えて受け継がれたとき、進化史の一部として残っていく。
重要なのは、水平伝播そのものと自然選択を区別することである。遺伝子が移動することは変異を生み出す仕組みの一つであり、その遺伝子が集団内に広がるかどうかは環境条件や遺伝的浮動などにも左右される。
したがって、生物が必要な遺伝子を意図的に獲得するわけではない。水平伝播も、将来の環境を予測して起こる進化ではない。
## 薬剤耐性は水平伝播を実感しやすい例
現代の社会で水平伝播の重要性がよく分かる例の一つが、細菌の薬剤耐性である。
抗菌薬への耐性に関係する遺伝子の一部は、プラスミドなどを介して異なる細菌のあいだを移動することがある。その結果、ある系統で生じた耐性に関係する遺伝子が、その系統の子孫だけに伝わるとは限らない。
抗菌薬が存在する環境では、耐性遺伝子を持つ細菌が相対的に生き残りやすくなる場合がある。すると水平伝播によって入ってきた遺伝子が自然選択によって集団内に増えることもある。
ここには二つの異なる過程が重なっている。
一つは、遺伝子が系統を越えて移動する水平伝播である。もう一つは、環境条件のもとで特定の遺伝的特徴を持つ個体が増える自然選択である。
耐性菌の進化は「細菌が抗菌薬に対抗するために進化した」と目的論的に説明されがちだが、より正確には、さまざまな遺伝的変異や遺伝子移動が存在するなかで、抗菌薬という環境条件によって耐性を持つものが残りやすくなったと考える必要がある。
## 遠く離れた系統でも遺伝子は移動する
水平伝播は、近縁な細菌のあいだだけで起こるとは限らない。進化的にかなり離れた生物群のあいだで遺伝子が移動したと推定される例も知られている。
細菌と古細菌では、代謝に関係する遺伝子などについて、個々の遺伝子から推定した系統関係が、生物全体について推定される系統関係と一致しない場合がある。こうした不一致のすべてが水平伝播によるとは限らないが、水平伝播は重要な原因の一つとして研究されている。
ここで、生物の「系統」と遺伝子の「系統」を分ける必要が出てくる。
ある生物種には、多数の遺伝子が存在する。その大部分が祖先から垂直に受け継がれていたとしても、一部の遺伝子が別の系統から入ってくれば、それぞれの遺伝子が異なる歴史を持つことになる。
そのため、特定の一個の遺伝子だけを使って作成した系統樹が、その生物全体の進化史を完全に表しているとは限らない。現代の系統解析では、多数の遺伝子やゲノム全体の情報を比較しながら、こうした問題を検討する。
## 真核生物にも残された「横から来た遺伝子」
水平的な遺伝情報の移動を考えるうえで、真核生物の成立も重要である。
現在広く支持されている細胞内共生説では、ミトコンドリアの祖先は細菌の一系統であり、別の細胞との共生関係を経て真核細胞の一部になったと考えられている。植物や藻類などが持つ葉緑体も、シアノバクテリアに由来すると考えられている。
その後、かつて共生体が持っていた遺伝子の一部が、宿主細胞の核ゲノムへ移動した。この過程は**細胞内共生遺伝子転移**と呼ばれる。
これは典型的な細菌間の水平伝播とは仕組みが異なるものの、生命の系統が単に枝分かれだけを繰り返したのではなく、異なる系統の遺伝情報が一つの細胞系統に集まることがあったことを示している。
真核生物の細胞は、単純に「ある祖先から一方向に高度化したもの」ではない。異なる進化史を持つ生物の結び付きが、その成立に深く関係している。
## 「生命の木」は「生命の網」なのか
水平伝播の存在が明らかになるにつれ、生命史を一本の「生命の木」だけで表現することへの限界も議論されるようになった。
とくに初期の細菌や古細菌の進化では水平伝播が大きな役割を果たした可能性があり、その歴史を**ネットワーク**として表現したほうが適切な場合がある。このため「生命の網」という比喩が使われることもある。
ただし、生命史全体を樹木モデルからネットワークモデルへ完全に置き換えればよいわけでもない。
細胞そのものは分裂によって子孫を残し、集団は時間とともに分岐していく。その意味では、生命史には明確な樹木状の構造が存在する。一方、その枝のあいだを遺伝子が移動するため、遺伝子レベルでは網目状の関係が重なる。
したがって、「木か網か」という二者択一よりも、**分岐する系統の上に遺伝子移動のネットワークが重なっている**と考えるほうが実態に近い。
## 最も古い生命史ほど復元が難しくなる
水平伝播は、生命の初期進化を研究するときにとくに大きな問題となる。
現在の生物のDNAを比較すれば、遺伝子配列の類似性から過去の共通祖先を推定できる。しかし、非常に古い時代に水平伝播が繰り返されていた場合、ある遺伝子がどの系統から受け継がれたものなのかを判断することが難しくなる。
生命の最終共通祖先、いわゆるLUCAについても注意が必要である。LUCAは「地球最初の生命」を意味するわけではなく、現在生きている生物が共有する系統をさかのぼったときに想定される共通祖先である。
その時代以前やその周辺で、どの程度の水平伝播が起こっていたのかについては未解明な点が多い。初期生命の進化が現在の生物と同じような明瞭な系統構造を持っていたのか、それとも遺伝情報の交換がより頻繁だったのかについても研究が続いている。
したがって、深い時代の系統樹は完成した家系図ではない。現存生物の遺伝情報から、失われた過去を統計的に復元した仮説である。
## 水平伝播が示す進化の姿
水平伝播から見えてくるのは、進化が一本の道を上へ進んできた歴史ではないということである。
遺伝情報は突然変異によって変化するだけでなく、ときには別の系統からもたらされる。そこに自然選択、遺伝的浮動、集団の分離、環境変化などが重なり、現在の生物多様性が形成されてきた。
だからといって、水平伝播を「進化を速めるために生物が獲得した仕組み」と考える必要もない。水平伝播に関わる現象そのものにも進化史があり、その結果が環境によって有利になる場合も、不利になる場合も、ほとんど影響しない場合もある。
生命史には、枝分かれがあり、絶滅があり、ときには枝を越えた遺伝子の移動がある。それは進歩の階段ではなく、数十億年にわたって分岐と交流が積み重なった歴史である。
系統樹は今も生命史を理解する中心的な道具である。しかし水平伝播を知ることで、その樹木の枝のあいだには、目に見えない無数の遺伝的な橋が架かってきたことが分かる。生命の歴史は一本の木よりも複雑であり、その複雑さこそが進化の実像の一部なのである。