進化はなぜ階段ではなく樹木なのか
## 「下等」から「高等」へ進むわけではない
生命の進化を説明するとき、しばしば一本の階段のような図が使われる。単純な生物から複雑な生物へ、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類へ、そして最後に人類へ――という並びである。
こうした図は大まかな変化を覚えるには便利だが、実際の生命史を表すものとしては大きな問題がある。進化には、あらかじめ決められた上方向も、最終地点もないからだ。
現在の生物が過去の生物より一律に「進んでいる」わけでもない。細菌も昆虫も魚も鳥も人間も、それぞれ異なる系統が現在まで残った結果である。
生命史に近い形を選ぶなら、階段ではなく**枝分かれを繰り返す樹木**として考える必要がある。
## 進化の基本は「置き換え」ではなく「分岐」
階段型の進化観では、ある生物が次の生物に変わると、古い段階は役目を終えて消えていくように見える。
しかし、実際にはそうならないことが多い。
ある生物集団が二つに分かれ、それぞれが別の環境や条件のもとで変化していけば、共通祖先から二本の系統が生じる。その後さらに分岐が起これば、枝の数は増えていく。
つまり進化とは、
「AがBになり、BがCになる」
という一直線の変化だけではなく、
「AからBとCが分かれ、BからDとEが分かれる」
という歴史なのである。
もちろん、分岐したすべての系統が残るわけではない。多くの枝は途中で絶滅する。そのため生命史の樹木は、均等に枝が伸びた整った木ではない。大量の枝が生まれ、その多くが途切れ、ごく一部が現在まで伸びている不規則な樹木に近い。
## 魚が消えて両生類になったわけではない
脊椎動物の歴史は、階段型の誤解が生じやすい例である。
「魚類→両生類→爬虫類→哺乳類」
という順序を見ると、魚類全体が両生類へ変わり、両生類全体が爬虫類へ変わったように感じられる。
実際には、陸上脊椎動物につながる系統は、古生代に存在した魚類の一部の系統から分岐した。魚類の多くの系統はその後も海や淡水で独自に進化し続けている。
現在でも魚類に相当する多様な脊椎動物が存在するのは、そのためである。
同じことは哺乳類にも当てはまる。哺乳類が登場したからといって、それ以前の爬虫類型の動物がすべて哺乳類になったわけではない。共通祖先から異なる枝が分かれ、それぞれ別の歴史を歩んだのである。
生命史を階段にすると、この「同時に存在する複数の枝」が消えてしまう。
## 恐竜と鳥の関係も樹木で考えるとわかりやすい
恐竜についても、「恐竜が絶滅した後に鳥が現れた」という印象を持つことがある。
しかし鳥類は、恐竜とは無関係な動物が絶滅後に登場したのではない。獣脚類恐竜の一系統から鳥類につながる枝が生じ、その系統が白亜紀末の大量絶滅を越えて現在まで続いている。
したがって、「恐竜から鳥へ進化した」という表現だけでは少し足りない。
より正確なイメージは、恐竜という大きな枝の内部で多くの枝分かれが起こり、そのうち鳥類につながる枝だけが現在まで続いている、というものだ。
ティラノサウルスが鳥になったわけではない。ティラノサウルスにつながる系統と鳥類につながる系統には、より古い共通祖先がいた。
樹木として見ることで、「祖先」と「近縁な別系統」を区別しやすくなる。
## 私たちは現生類人猿から進化したのではない
人類の進化でも同じ誤解が生じる。
「サルから人間になった」という表現から、現在のチンパンジーなどがそのまま人間へ変化したと考えるのは正確ではない。
人類につながる系統とチンパンジーにつながる系統は、過去の共通祖先から分岐した。分かれた後、それぞれの枝で独自の進化が続いた。
したがって、現生のチンパンジーは人間の祖先ではない。人間と同様、長い進化史を経て現在に存在している別の枝である。
ここでも階段型の図は、「現在生きている生物の一つが、別の現在生きている生物になる」という誤解を生みやすい。
系統樹では、重要なのは枝の先端よりも**枝分かれする地点**である。そこをたどることで、どの生物同士がより新しい共通祖先を共有しているかを考えられる。
## 樹木には「一番上」がない
進化を階段として描く最大の問題は、最後の段が「最も進化した生物」に見えてしまうことである。
とくに人類を頂上に配置すると、生命史全体が人類の出現を目指して進んできたように見える。
しかし、進化論にはそのようなゴールは設定されていない。
自然選択によって有利になる特徴は、環境によって異なる。速く走ることが有利な環境もあれば、ほとんど移動しないことが有利な環境もある。巨大になる系統もあれば、小型化する系統もある。複雑な器官を発達させる場合もあれば、特定の環境への適応の過程で器官を縮小・喪失する場合もある。
変化の方向は一つではない。
そもそも樹木には、階段のような最上段が存在しない。人間も鳥も昆虫も植物も菌類も、それぞれ枝の先に位置しているだけである。
## 「複雑化」は起きたが、それが生命史全体の方向ではない
それでも生命史を振り返れば、初期の生命から真核生物、多細胞生物、大型動物へと、より複雑な構造を持つ生物が出現してきたことは確かである。
では、やはり生命は複雑化を目指して進んできたのだろうか。
そう単純には言えない。
複雑な生物が登場した一方で、単細胞生物が消えたわけではない。むしろ微生物は現在も地球上の多様な環境に存在し、生態系や物質循環で重要な役割を担っている。
生命史の初期に単純な形態しか存在しなかったなら、その後に現れる新しい形態には「より複雑になる」方向が含まれやすい。しかし、それはすべての系統が複雑化し続けることを意味しない。
生命史では、複雑化、多様化、単純化、特殊化、絶滅が同時に起きてきた。
一本の上昇曲線ではなく、多方向へ広がる枝として考えた方が実態に近い。
## 大量絶滅は樹木の枝を切り落とす
生命史の樹木は、生物自身の進化だけで形づくられてきたわけではない。
地球環境の変化も、どの枝が残るかに大きく関わってきた。
古生代末のペルム紀末大量絶滅や、中生代末の白亜紀末大量絶滅では、多数の系統が失われた。ただし絶滅は「古い生物を退場させ、新しい生物を登場させるため」に起こるものではない。
結果として生き残った系統が、その後に利用できる生態的な空間を広げ、多様化することがある。
白亜紀末の絶滅後に哺乳類の多様化が進んだことも、その一例として理解できる。ただし、哺乳類そのものは大量絶滅後に突然誕生したわけではない。中生代からすでに存在していた複数の系統の一部が生き残り、その後の環境のなかで多様化したのである。
樹木で表現するなら、大量絶滅とは幹を次の段階へ押し上げる出来事ではない。多数の枝が一度に切り落とされ、残った枝からその後の樹形が作られていく出来事に近い。
## 地球環境が変われば、伸びる枝も変わる
生命史を樹木として考えると、進化と地球環境の関係も見えやすくなる。
海洋の酸素状態、大気組成、気候、海水準、大陸配置などは長い時間のなかで変化してきた。それらは生物が利用できる環境を変え、ある系統には有利に、別の系統には不利に働くことがある。
一方で生命も地球環境を変えてきた。光合成生物による酸素供給や、陸上植物による土壌形成・物質循環への影響など、生物活動は地球システムの一部になっている。
ただし、ある環境変化が特定の進化を直接「引き起こした」と単純に結びつけられない場合も多い。進化には遺伝的変異、生態的相互作用、地理的隔離、偶然の出来事など複数の要因が関係するからである。
だから生命史の樹木は、環境によって機械的に設計された樹木でもない。
## 現在の生物はすべて同じだけ長い歴史を持つ
系統樹を見るうえで、もう一つ重要な点がある。
現存する生物は、どれも現在まで途切れず続いてきた系統の末端にいる。
人間の系統だけが数十億年の進化を経験し、細菌が原始的な時代に取り残されているわけではない。現在の細菌も、生命誕生以来の長い歴史のなかで変化と分岐を繰り返してきた。
「昔から形があまり変わっていないように見える」ことと、「進化していない」ことも同じではない。
外見が似ていても遺伝的変化は続いている可能性があるし、ある環境で有効な基本構造が長期間維持されることもある。
系統樹の先端にいるという意味では、人間も細菌も同じ「現在の生物」である。
## 生命史は勝者を決めるトーナメントではない
階段型の進化観は、絶滅した生物を「敗者」、現在繁栄している生物を「勝者」と見る発想にもつながりやすい。
しかし、ある系統が数千万年、あるいはそれ以上にわたって繁栄した後、環境変化によって絶滅したからといって、その系統の進化が失敗だったことにはならない。
三葉虫は古生代の海で長期間にわたって多様化した。非鳥類型恐竜も中生代の陸上生態系で長く多様な地位を占めた。
彼らが現在存在しないことを知っているのは、後世に生きる私たちである。
進化の途中にいる生物には、自分たちの枝が将来まで残るかどうかはわからない。もちろん私たち人類についても同じである。
## 樹木として見ると、生命史は違って見える
地球生命史は、「単純な生命が次第に高度になり、最後に人間が登場した」という一本の物語ではない。
無数の系統が分かれ、それぞれ異なる環境で進化し、多くが絶滅し、一部がさらに枝分かれする。その過程に気候変動、大陸移動、海洋環境の変化、大量絶滅、生物同士の相互作用などが重なってきた。
現在の生物は、その巨大な樹木のごく一部の枝先にすぎない。
進化を階段ではなく樹木として見ることは、単に図の描き方を変えることではない。
そこには、進化には頂点がないこと、現存生物に「古い段階」と「新しい段階」が並んでいるわけではないこと、絶滅した生物も生命史の重要な枝だったこと、そして人類もまた無数の枝の一つにすぎないことが表れている。
生命史は、頂上へ向かう行進ではない。
枝分かれと絶滅を繰り返しながら、地球環境との相互作用のなかで形を変え続けてきた、巨大な樹木なのである。