進化はなぜ進歩ではないのか

「進化した」は「優れた」になった、という意味ではない

日常語では、「進化した製品」「進化した技術」のように、進化という言葉が改善や高度化の意味で使われる。そのため生物の進化についても、単純な生物から複雑な生物へ、弱い生物から強い生物へ、最後には人間へ向かう長い進歩の歴史だと考えられやすい。

しかし、生物学でいう進化はそのような意味ではない。進化とは、世代を重ねるなかで生物集団の遺伝的な性質が変化していくことである。その結果として、新しい形質が広がったり、系統が分岐して新しい種が生まれたり、逆に構造が単純になったりする。

ここには「より優れた存在になる」という条件は含まれていない。

地球生命史を理解するとき、この違いは重要である。生命の歴史は一本の階段ではなく、無数の枝分かれ、絶滅、偶然、生息環境の変化が重なった巨大な系統樹として見るほうが実態に近い。

自然選択が生み出すのは「その環境での有利さ」

進化を進歩と考えてしまう理由の一つは、自然選択を「より優秀な生物を作る仕組み」だと誤解することにある。

自然選択では、ある環境のもとで生存や繁殖に影響する遺伝的な違いがあれば、子孫をより多く残す個体の特徴が集団内で増えやすくなる。

重要なのは、何が有利かは環境によって変わるという点である。

寒い地域では保温に役立つ特徴が有利になることがある。一方、高温の地域では同じ特徴が不利になるかもしれない。餌が豊富な環境と乏しい環境でも、有利な体の大きさや行動は異なる。

つまり、生物に絶対的な「性能順位」が存在するわけではない。

しかも環境そのものが変化する。気候、海水準、大陸配置、捕食者、競争相手、病原体などが変われば、それまで有利だった特徴が不利になることもある。

自然選択は未来の環境を予測して生物を準備する仕組みではない。その時点で存在する変異のうち、現在の条件のもとで繁殖に結び付きやすいものが広がるだけである。

進化には「目的地」がない

進化を階段として描くと、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類、そして人間へと生命が一直線に進んできたように見える。

実際の生命史はそうではない。

たとえば、四肢動物の祖先となった系統が魚類の一部から分岐したからといって、魚類全体が陸上動物になる途中段階だったわけではない。現在も多様な魚類が水中環境で繁栄している。

同じように、哺乳類がある古い四肢動物の系統から生じたからといって、それ以外の系統が「進化に失敗した」わけでもない。

系統は枝分かれする。

ある枝では大型化が進み、別の枝では小型化する。ある枝では飛行能力が生まれ、別の枝では地中生活に適応する。ある枝では複雑な社会行動が発達し、別の枝では単独生活が続く。

どの枝にも、あらかじめ決められた到達点はない。

複雑になることだけが進化ではない

生命史を見ると、複雑な構造が生まれた例は確かに多い。

単細胞生物から多細胞生物が生じ、組織や器官を持つ動物や植物が現れた。脊椎動物では複雑な感覚器官や神経系を持つ系統も進化した。

しかし、だからといって進化そのものが複雑化を目指しているわけではない。

環境によっては、構造を失うことも適応になる。

洞窟など光の乏しい環境に暮らす動物では、系統によって眼や色素が縮小することがある。使われない構造を維持することに利点がなく、別の感覚や代謝に関係する特徴が重要になる場合があるからである。

寄生生物でも同様である。宿主の体内から栄養を得られる環境では、自力で餌を探したり消化したりするための構造の一部が縮小することがある。

これは「退化して進化以前に戻った」という意味ではない。

構造の喪失も、世代を通じて遺伝的性質が変化した結果なら進化である。複雑化と単純化は、どちらも進化の方向になりうる。

クジラの進化も「海を目指した物語」ではない

クジラ類の祖先は陸上生活をしていた哺乳類の系統に属していた。長い時間をかけて水辺や水中での生活に関わる形質が変化し、最終的には完全な水生生活を送るクジラ類が現れた。

この歴史は、一見すると「陸上動物が海で暮らすために体を改造した」ように見える。

しかし、未来のクジラになることを目標に進化したわけではない。

各世代で起きていたのは、その時々の環境で生存や繁殖に影響する変異が選択されることである。泳ぎに適した体形、移動に関わる四肢の変化、呼吸や感覚に関係する特徴なども、一度に完成したわけではない。

後から歴史を見ると一つの方向へ進んだように見えるが、その方向は最初から決められていたわけではない。

進化には完成図が存在しない。

絶滅は「劣っていたから」起こるとは限らない

進歩史観では、古い生物が新しく優れた生物に置き換えられていくように見える。

しかし、絶滅の歴史を見ると、この考え方では説明できない。

地球生命史では、大規模な火山活動、急激な気候変化、海洋環境の変化、小惑星衝突などが生命に大きな打撃を与えてきた。大量絶滅では、それまで長期間繁栄していた多くの系統が短い地質学的時間のうちに消えている。

白亜紀末には、鳥類を除く恐竜をはじめ、多数の生物群が絶滅した。

彼らが何千万年ものあいだ生き延びてきたことを考えれば、単純に「新しい生物より劣っていたから消えた」と考えることはできない。

大きな環境変化が起きたとき、どの特徴が生存に有利になるかはそれまでとは変わる。体の大きさ、食性、繁殖速度、生息域など、平常時には問題にならなかった違いが生死を分けることもある。

絶滅後に空いた生態的な空間へ生き残った系統が広がれば、後世からはそれらが「勝者」に見える。しかし、それは最初から勝つよう設計されていたという意味ではない。

偶然も進化の歴史を変える

進化を自然選択だけで説明することもできない。

遺伝的浮動と呼ばれる現象では、生存や繁殖上の有利不利とは必ずしも関係なく、偶然によって遺伝的変異の頻度が変化する。特に個体数の小さな集団では、その影響が大きくなることがある。

突然変異がどの個体に起こるか、災害の際にどの集団が生き残るか、どの地域へ移動できるかといった歴史的偶然も、その後の進化に影響する。

また、進化は過去から受け継いだ体の構造を材料として進む。

脊椎動物の四肢、鳥類の翼、クジラ類の前肢は、それぞれまったく新しい設計から作られたものではない。祖先が持っていた構造が変化し、異なる用途に利用されてきた。

そのため進化は、理論上もっとも効率的な構造を一から設計する工程とは異なる。歴史的な制約を受けながら、既存の構造が変更され続ける過程である。

現在の生物は「古い生物」と「新しい生物」に分けられない

細菌や古細菌のような微生物を見ると、「原始的な生物」という表現が使われることがある。

しかし、現在生きている微生物は太古の生命がそのまま保存されたものではない。それらの系統も、他の生物と同じように長い時間をかけて進化を続けてきた。

人間と現在の細菌を比べて、「人間のほうが数十億年進化が進んでいる」と考えることはできない。

両者はそれぞれの祖先から現在まで、同じ地球史の時間を経験している。

違うのは、進化してきた方向である。

巨大な多細胞体や複雑な脳を持つことが、あらゆる環境で有利なわけでもない。微生物は小さな体、短い世代時間、多様な代謝などによって、人間には生存できない環境を含む広い範囲に存在している。

「複雑さ」を一つの尺度として生命全体を順位付けすること自体が、生態学的にはあまり意味を持たない。

人間は進化の頂点ではない

進化を進歩と考えると、生命史の頂点に人間を置きたくなる。

確かに人間は、大きな脳、複雑な言語、累積的な文化、高度な技術を持つという点で非常に特徴的な生物である。地球環境に与える影響も極めて大きい。

しかし、それを理由に進化の「最終段階」と呼ぶことはできない。

鳥には人間にはない飛行能力があり、多くの魚類は水中で人間よりはるかに効率よく活動できる。微生物には人間が利用できない化学反応をエネルギー源とするものがいる。植物は光エネルギーを利用して有機物を作る。

能力を一つ選べば、その能力に優れた生物を順位付けすることはできる。しかし、すべての環境に共通する一つの「進化度」という尺度は存在しない。

人間もまた、系統樹の無数の枝の一つにすぎない。

生命史は「階段」ではなく「枝分かれの歴史」

約数十億年に及ぶ生命史を振り返ると、複雑な生物の出現、多細胞化、陸上進出、飛行、社会性、知性など、目を引く変化が数多く起きてきた。

だからこそ、それらを一直線につないで「生命は次第に高度になってきた」と物語化したくなる。

しかし、その背後でははるかに多くの系統が分岐し、異なる環境へ適応し、絶滅している。複雑化した系統もあれば単純化した系統もあり、長期間よく似た生活様式を維持した系統もある。

進化とは、生命が完成へ向かう過程ではない。

変異が生まれ、自然選択や遺伝的浮動などによって集団が変化し、系統が分岐し、ときには環境変動によって消えていく。その繰り返しが生命史を形作ってきた。

進化を「進歩」から切り離して考えると、地球生命史は一本道ではなくなる。

そこに見えてくるのは、頂点を目指す競争ではなく、変わり続ける地球の上で無数の生命の系統が異なる方向へ枝分かれしてきた歴史である。